栗のイガとパンツ

私が生まれたのは昭和五年で、山形県北村山郡戸沢村という当時はたいへんな寒村でした。現在は町村合併で村上市の一部になっています。
貧乏な家に生まれたのだと自分で気づいたのは、たしか三歳の頃だったと思います。

若い方はご承知ないでしようが戦前は小作人制度がありました。地主から土地を借りて耕し、作料として収穫したコメなどの作物を地主に納めて、残った収穫分で一年間の生計を立てるのです。
小作人から過酷な小作料の取り立てをする地主もいたり、まるで牛や馬のように人間以下の扱いを受けた小作人もいたりしました。

私の生家はこの小作人で、田圃や畑をあわせても約六反歩(一反は三百坪、約九九一・七平方メ1トル)ほどですから、わずかな土地を耕して得た収穫から小作料を地主に納め、残った分で一家が生命をつないでいたわけです。
三男として生まれましたが、生まれたときは貧乏な家に生まれついたとは知る由もなく、普通の赤ん坊同様、「オギャー」と元気な産声を上げたそうです。
物心がついてきた三歳の頃、いってみれば人生の重大な機微に気づきました。それは秋の収穫が始まる頃でしたが、裕福な家の子どもと栗拾いに行った折りのことです。
裕福な家の子どもは洋服を着ていて、私は薄汚れた浴衣を着ていましたが、子供のことですから貧富の差については格別な思いはなかったのです。
それまでも金持ちの家の子どもは「パンツ」というものをはいていて、貧しい家に生まれた私はパンツをはいていないことは知っていました。パンツをはいていないということは、おシッコをするときに浴衣の裾をパッとめくればすぐに用が足せるのでたいへん便利です。あれこれ手間のかかるパンツとは何かと面倒なものだ程度の認識でした。

さて、栗拾いをしようと連れだって山に行き、イガが開いて落ちている栗を拾い集め始めました。
私は懸命になってあちらこちらとこまめに探し回り、たくさんの栗を拾い集めましたが、裕福な家の子どもはのんびりと構えていて、大した量は集めていません。
私はさらに熱心に走り回り、栗の木の根本を這い回って栗を拾い集め、しまいにはくたびれ果ててドスンと尻もちをついてしまいました。
その瞬間、睾丸の辺りに頭がしびれるような痛みが走りました。栗のイガの上に尻もちをついたのです。

「イタッ、イターッ」と睾丸を押さえながら飛び上がって大声を出しました。何事かと洋服を着た裕福な家の子どもは近寄ってきて、私が尻もちをついた場所に同じような格好でドスンとお尻を下ろしました。
しかし痛がる様子もなく、いったい何のことかと訝しげな顔でこちらを見ています。
「お前、尻は痛くないか?」と聞くと、「何でもねッ」といいます。そのとき初めて洋服とパンツの効用に気づきました。

金持ちと貧乏という生まれついての差も思い知らされたのです。
また、人間は立場が違えば相手の痛みは到底わからないものなのだということも強く印象づけられました。
他人との関わり、社会というものとの初めての出会いとして、この出来事は今日まで強く印象に刻まれているのですが、私の人生はこうして始まったわけです。

当時、私の村には電気が来ておらず、家々の照明はランプでした。
ランプのホヤ(火をカバ ―するガラス製の筒)についた前の晩の煤をポロ布できれいに磨き取り、油を補給しておくのはどこの家でも子ども達の役割でした。
学校から帰ると親の野良仕事の手伝いにかり出されたり、自然の中で駆け回り近所の友達と遊ぶ、下の弟や妹の子守や世話をする、子ども達の日常はそんな時代でした。

村に電気が来たのは私が小学校の二年生になった頃です。ランプとは違い近代科学の匂いがする電気の明かりが点きました。
ランプとは比べようもないほど明々と輝く電球を眺めながら、 いいようもないほどうれしかった記憶があります。
冬になるとときどき電球が点かなくなることがありした。

すると父親は、藁打ち(藁を叩いて縄などに細工しやすいようにしなやかにする)用の、「アオ」と呼ばれ大きな木槌を持ち出して家の近くの電柱の側へ行き、あちらこちらに電線がつながっている電柱をいきなりドスンと叩くのです。
すると電線についていた雪がパラバラと落ちて来たと思った瞬間、まるで手品のように家の明かりがパッと点きます。
積雪のために接触不良が起きていたのが、アオで強く叩くことで接触が回復したわけですが、子供心に「親父はアオの一振りで電気をつけることができる。実にたいしたもんだ」と父親がずいぶん立派に見えたものです。

山形の奥深い田舎と当時の東京市の電灯の事情については、今で言う芸能プロダクションのようなお仕事のようですが、マセキ芸能社を経営しておられた柵木眞氏の著書『私のネタ帳―昭和の演芸・裏方人生― 』に次のように書いてあります。

子どもの頃の記憶として、「谷中に住んでいる頃は、電気がタ方になるとついて、朝になると消えてしまいました。昭和五年頃でした」とありますから、私が生まれた頃の東京ではすでに夜間だけ給電されていたようです。
また同書には、「トイレも水洗ではなく、ドプもボウフラでいっばい。夏になると伝染病で子供が死ぬのです。
私の妹も昭和十年四月一日に、前の日まで元気だったのに翌日にはぐったりして死んでしまいました」とあり、当時の人びとの伝染病に対する恐怖が述べられています。

衛生環境が悪く医療の面でも不十分であったでしょうから、元気で遊び回っていた子供が伝染病でアッという間に死ぬというような、今日では考えられないような時代であったのです。
もちろん、私が生まれた田舎は東京に比べれば事情はさらに悪いわけで、幼児のうちに生命を失うことは珍しいことではなかったのです。
それだけに、 一人一人の生命の大切さが目に見えていた時代だったと思われます。

佐藤一英「見えてきたガンの征服」 ㈱実務教育出版 1995年 第五章 患者の気持ちと医者の思いより


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