科学を超えるカン

西岡さんの話を聞いたとき、25年ほど前にお目にかかった千葉大学の川喜多愛朗教授の話を思い出していました。
川喜多教授とはある学会でご一緒して、合間のレセプションで親しくお話を伺ったことがあり、その後も群馬大学の研究室に見えられて、教示を受けました。そのときの話も印象深いものでした。

「あるとき、魚を捕る名人といわれた漁師がいた。彼は漁に出る前から、どこの海で、どんな魚がどれぐらい捕れるかをビタリといい当てることができたという。出漁すれば他の漁師の何倍かの魚を捕ってくるのが常であった。
一方、山についてはすべてを知っていて、これも名人といわれる木こりがいた。彼はどこに行けばどんな木があり、どこにどういうキノコが生えているか、山の草木1本1本について知らないことはないという。彼が山に入ると、ほかの木こりでは探し出せないような、建物にあった銘木をすぐに探し出すことができた。あるとき、この名人の漁師と名人の木こりの二人が出会うことになったのです」と話は始まったのです。

聞いていて、さあどうなるのだろうと私は興味津々でした。教授は一息ついて一同の顔を見回し話を続けます。

二人が出会うと、名人木こりが、『お前さん、あの広い海に船を漕ぎだして魚を捕ってくるわけだ。何の目印もない海に何を目当てに行って、見えもしない魚がいるとわかるのか。いやあ、お前さんは実に大したものだ』と感心して名人漁師に話しかけた。

すると名人漁師は、『とんでもない。お前さんこそ高い山や低い山が連なっていて、深い薮がある中に分け入って、どこにどんな木があるとか、どこにどんなキノコが生えているかをすべて知っているとは、お前さんこそ大した山の名人木こりだ』と応えます。

お互いに顔を見合わせながらしばらく黙っていたが、そのうちどちらからともなく、『まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか。 一杯飲もう』となった。
そして酒を酌み交わしながら、『会えてよかった』『よかったな」と繰り返したという」「話はこれでおしまいです。この話、みなさんどう思われますか」と川喜多教授は一同に問いかけて席を立ちました。

なぜ教授はこんな話をしたのでしようか。
この話をどう受け止めるか、後は聞き手に任せようというのです。
要らぬお節介であることを承知しながら、私の考えを申し上げると、この話には、一つには、分野は違っていても、その道に通じている人はお互いに響き合い呼応するものだという意味が込められているでしょう。
また、分かり合うことは決して長々と説明することではなく、カンのようなものが働くのだという意味も含まれているでしょう。

人間は言葉というコミニュケーション手段を持っています。
意思を伝える手段として言葉は万能であるかのように思えます。
しかし、言葉で何万言を費やしても、すべてを説明することはできないし、理解してもらうこともできません。
木こりが何時間かけて山について説明しても、漁師が言葉を尽くして海について説明しても、相手にどのぐらいの真実を伝えることができるでしょうか。
お互いの真実を短時間でわかり合うには「カン」しかありません。

この場合、言葉というコミニュケーション手段はあまりも役に立ないのです。真実を伝え合うためには言葉は空回りであり、煩わしいものでしかないことも多いのです。

漁師にも木こりにも自分でうまく説明できないカンがあることをお互いに知っているのです。
どこに魚がいるのか、どこにキノコが生えているのか。経験の積み重ねだけが教えてくれるある種のカンが働いて、的確にその場所がわかる、その共感があると思うのです。
そういう共通の思いはお互いに会った途端にパッとわかり合えたと思うのです。

説明は科学ですが、カンは科学ではないとされています。
しかし、カンが働かなければわかり合えないことも多いのです。
見つけられないことも多いのです。
科学を超えるにはカンという素晴らしい働きが必要です。
熟練を超えるカンは努力の結果身につくものです。
医学上の重要な発見もカンや偶然に依っているものがほとんどなのです。

こうした諸先生の教えは、その後も折りにつけて思い出されます。自
分の人生の方向を示してくれ、大きな力を与えてくれました。
こうした偶然ともいえる出会いに対して感謝に堪えない気持ちです。
今も医者として治療上のポイントは、カンを頼りに患者から教わり続けています。
適切な治療の方法を教えてくれる最良の教師は患者との出会いなのです。

佐藤一英「見えてきたガンの征服」 ㈱実務教育出版 1995年 第五章 患者の気持ちと医者の思いより


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